【自作】名言集 2017年版

名言を蒐集するのが好きで、また普段からいろいろ考えたりする事があるのですが、単に「~なんじゃね?」と思った事を「名言集です。」とかいって作ってみるのもバカらしいけど面白いかなと思って始めてみました。※新しいのが思いつき次第、更新していきます。

大文字が自作名言で、()内は言葉を思いついた時の状況と日付で、その下がコメントです。

「世界には、人の手によって創られた素晴らしいもの、美しいもの、面白いものというのが確実に存在しているという事実。それこそが、私が人としてこの世界で生きていく動機であり、絶対不変の救いである。」(ある日、良い音楽を聴きながら読書をしている時、ふと思う。【2017/09】)

たまーにですが、「あー、なんか全部めんどくせえ。くだらない気がする。。。俺なんで生きてんだろ?」的なテンションになる時があるのですが、震えるぐらいに素晴らしい物語だとか音楽だとかに遭遇すると、「あー、俺この世界で人間として生きてて良かった。。。」って心底思えるんですよね。

「生きることとは、自らの内なる混乱と戦い続けていくことである。」(三秋縋先生の「恋する寄生虫」の「内なる混乱」って表現がやたら気に入って。【2017/09】)

読んでて、「内なる混乱」って表現が気に入り過ぎて即席で安易に思いついたんですけど、実際、結構その通りではあると思ってます。

「物語において、【魅力的なキャラクター】であること。その条件とは、そのキャラの思考、言動、生き方など、それらが物語の奴隷ではなく、そのキャラだからこその思考、言動、生き方であると読者に思わせる事にある。」(怠惰な休日の怠惰な睡眠から目覚めて、ふと思う。【2017/09】)

言いきってしまっていますが、↑が【魅力的なキャラクター】である事の全てではないとは思うのですが、経験上けっこう当てはまる条件だとは思うのですよね。「まあ、こういう話の流れだから、そりゃあ、そう思って、そう言うし、そう行動するよね。」っていうこちらの予想を何一つの予想外なく実行してしまうだけのキャラってなんの印象も残らないんですよね。(まあ「可愛いい」とか「かっこいい」とかの要素は突き抜けるとそれだけで印象に残ったりしますが、それはひとまず例外として)

その中にただ1つでもこちらの予想しない何かがあれば「お?」ってなるんですけど。言ってしまえば物語のキャラなんてのは作者という神によって創り出された「物語」の上で踊る駒と言ってしまって間違いではないと思うのですが、そう思わせないキャラ、「そこにいるのは他の誰でもないその人物だ。」って思わせるキャラ。そんなキャラは記憶に残るし、大好きなんですよね。(今してるのは全部内面的な魅力の方の話です。)

「面白いものを面白いと思える、美しいものを美しいと思える、素晴らしいものを素晴らしいと思える、美味いものを美味いと思える、良いものを良いと思える。これ以上の幸福はない。」(ある休日の朝にネットサーフィンをしながらふと思う。【2017/09】)

もしかしたらそれ以上の幸福もあるのかもしれませんけど、何一つそう思えなかったとしたら、心底生きてる意味とか価値とか感じられないのではないかと思うと、やっぱりそう思える事こそ最上の幸福と言えるかと。

「束縛の中に感じるささやかな自由にこそ価値がある。」(ブログで記事を書いている時にふと思う。【2017/10/06】)

完全で究極の自由っていうと、それはつまり完全な孤独で、具体的には自分以外の人間が一人もいない状況だと思うんだけど、そんな自由はそもそもありえない上に欲しくない。だったら求めるべき自由は何かというとこれだと思うんですよ。

「『自分には何もない』と思うのなら、それは間違いなくただの思い込みであり、気のせいである。」(新海誠の「言の葉の庭」を読んでて、主人公の兄がかつての自分と同じ苦しみ抱いているのを見て、思う。【2017/10/08】)

「自分には何もない」。そして自分の周りの人間は何か持っていてそれを追いかけている。つまりは、自分には夢とか目標といったものが何もなく、ただ無為に日々を過ごしている気がして仕方が無いという思い込みから、周りのそうじゃないように見える人たちが羨ましく妬ましい。という苦しみですね。

私はこの苦しみに中学の時から10年以上にもわたり苦しみ続けられましたが、ある時ふと「何もないなんてのはただの思い込みであり、夢も目標もあった」と気がつきました。

私が思うに、これはもはや無意識レベルだと思うんですけど、「夢」とか「目標」をどうにも現実の「仕事」であるとか、「社会的に『夢』とか『目標』という言葉にマッチしている事柄であること」に当てはめようとし過ぎていたと、振り返ってみると思うんですよね。

例えば、「将来の夢はサッカー選手(料理人、ピアニスト、デザイナー、カメラマン、画家)になる事です!」とか周りに宣言すればすぐになるほどと理解して貰えるような、夢や目標といった言葉と共に使ってなんら違和感のない既知の言葉ですね。

今言ったようなものの中から夢や目標を見つけないといけない。でも見つからない、そして焦る、周りのそれが出来てるように見える人を妬み、羨む。今思い返しても苦しかったですね。

ただ、「夢」とか「目標」なんてのは、つまりは「やりたいこと」であり、生きてて「やりたいことが何一つない」なんてありえないと思うんですよ。まあ、その「やりたいこと」すらさっき言った「仕事」とか「社会的」って言葉に限定された中で探しちゃうから苦しむんですけど。

やりたいことなんてのはくだならない事で大いに結構、というか、くだらないしょうもない事の方が良いとさえ思ったりもします。「美味いもの食べたい」「面白い本、アニメ、ゲーム、音楽がもっと読みたい、見たい、やりたい、聴きたい」「日本中チャリで旅したい」「長生きして長寿認定されてドヤ顔で『長生きの秘訣はねえ・・・』とか語りたい」「とりあえず2千万くらい貯めたい」「実家にカラオケルーム作って歌いまくりたい」とかね。今の全部私がやりたい事なんですけど。

今挙げた事なんて「仕事」でもないし、「社会的に『夢』とか『目標』という言葉にマッチしている事柄であること」にも当てはまらないでしょうね。でも間違いなくこれが私の「やりたいこと」であり「夢」であり「目標」なんですよね。

やはり中にはかつての私や言の葉の庭の主人公の兄のように、無意識に限定された中で「夢」とか「目標」を探してそれが見つからず「夢がない」「やりたい事がない」と苦しむ人もいるかもしれません。

「それは気のせいだ」とここは断言します。検索エンジンで例えるなら、それは単にあなたが「夢」「目標」と言ったワードで検索をかけた時に「仕事」「社会的」といったフィルターをかけてしまっているか、そもそも該当数が極端に少ないしょぼいくそみたいな検索エンジンを使っているかのどちらかです。

だって本当に心底「やりたい事が何一つない」なら「今生きている事自体おかしい」じゃないですか。なら逆に、「今生きている」ことはすなわち「何かやりたい事がある」の証明であると思うんですよ。(あ、なんか名言言った感がしたのでこれも名言にしますね。)

「『あなたが今生きている』それは即ち『あなたにはなにかやりたい事がある』という事の証明である。」(↑の名言のコメント書いてたら「あ、これ名言っぽい」と思ったので採用」【2017/10/08】)

「いやでもマジでやりたい事なんてないんだけど。」って人もいそうですが、それは単にまだ気がついてないだけです。そんな時はとりあえず時間に身を任せましょう。時間がたてば勝手に腹が減って何か食べたくなるし、ムラムラして何か出したくなるし、なんだか眠くなってきますから、それが今のあなたの「やりたい事」です。それで良いと思います。

「そんな3大欲求を安定して存分に遠慮なく発散し続ける生活を送り続けることが夢です!」なんてのも大いにありではないかと。

「昨日と今日は違うし、今日と明日も違う。そう感じられる事は最上の救いではないだろうか。」(何をするでもなくボーっとしながら音楽を聴きながらふと思う。【2017/10/08】)

私は工場の作業員として働いているのですが、「全く何一つ変わらないこの日々がずっと続くのか?」なんて風に思った事は、1度や2度ではないし、学生の時のつまらない授業を受けていた時も思ったりしましたが、それは確かに「同じように見える、聞こえる」かもしれませんが、それは単にそう感じるだけで事実は確実に違います。

工場なら生産した製品の数も違うだろうし、作業のスピードも違うだろうし、欠伸した回数も違うだろうし、仕事中考えてた事も違うだろうし、もしくは考える日もあれば何も考えて無かった日もあるだろうし、食べた昼食も違うだろうし、同じものを食べていたとしても今日は昨日よりも美味いと感じるかもしれないし、いつもはウザい同僚が今日はウザくないかもしれないし・・・と細部まで何から何まで全く同じなんてのはまずありえないです。

そして、その「違い」を実感できるようになったのは最近ではありますが、これって結構な救いなのではないかと思うのです。

「『である』とか言えばとりあえず3割ほど名言っぽく聞こえるのである。」(名言を自作し始めてみて、思う【2017/10/08】)

私は少し前からあまり「断定」というのが好きではなかったです。しかし、最近は、断定してしまった方が良く伝わるとかなんとなくかっこいいとか、場合によっては断定の方が良いケースもあると感じています。断定を避け、「あくまで私個人的にはそう思うんです。」とかも良いですが、変にへりくだったり無駄に丁寧になり過ぎても逆に鬱陶しかったり、無駄に文字数だけ多いだけだな、と感じる事もあります。

どんな時にどんな口調で語り、締めるかという判断基準はまだ良く分からないですが、しかし、「名言です」なんて言うからには、基本的に断定的に締めた方が格好がつくのは確かな気がします。

「『おかしい』『おかしくない』『まとも』『まともじゃない』。そういうものの判断基準と言うのは自分の状況、状態を客観的に認識する事が出来ているかというのは1つ言えるかもしれない。」(言の葉の庭の名言のコメントを書いている時に、思う。【2017/10/9】)

まあ、周りからみてまともじゃなくて、それを本人が自覚していようが、その人は周囲から見れば「まともじゃない」のでしょうが、自分で自分を「まともじゃない」と客観的に認識している分はまだ自覚もない人よりかは「まとも」なんじゃないかと。

「『今何してるの?』という問いが、まるでそれが暗黙の了解のごとく、『今仕事は何してるの?』という問いと=になっているこの社会が嫌いだ。そして、そう聞かれたらそのように答えるのが『普通』であるといつの間にか認識している私自身も嫌いだ。」(高校時代の友人から『今何してんの?』というlineを貰い、やり取りをした時、思う。【2017/10/12】)

ふと思う事があるのですが、なんなんでしょうね?常識とか社会性とかいうやつは。いつの間にか、自分はそれらをある程度理解してしまっていて、それに囚われている。その自覚もある。それに沿って生きた方が生きやすい事も知ってる。でも、たまにそれが「なんかムカつくとな。」とふと思うのですよ。

「『こうするのが普通である。常識である』といった『普通』や『常識』というものをそうであると私自身が認識しているという事。それらは『社会性』と言え、私をこの社会において生きやすくさせてくれている事だろう。しかし、その事実は時々私に何とも言えない苛立ちを与える。」(『今何してんの?』というLINEに対する自分の思考に僅かに苛立ちを感じて。【2017/10/12】)

↑のコメントをただそれっぽく言ってみただけです。

「自分と他人はどこかしら決定的に『ズレて』いる。その『ズレ』を面白いと思えないのならば、『友人』とか『恋人』という、損得なしの関係は続かないのではないだろうか。」(「景の海のアペイリア」というエロゲのデートシーンを見ていて、ふと思う。【2017/10/14】)

そのズレがめんどくせえとかうっとおしいとかしか思わなかったら、利害関係絡みじゃなかったら速攻で切れるでしょうしね。

「他人の性格とか思考とか行動を勝手に分析して『ひでぇな、こいつ。』とか見下しておきながら、その酷さの所以と言える傾向が自分自身にも少なからずあると気がつくと、少し笑える。」(内心「めんどくせーな。」と思ってる知り合いのおっさんから電話がきて話した後に、思う。【2017/10/14】)

「うっわ、こいつマジで頭おかしいんじゃねーの?」って思いながら話聞いてて、「はい。ああ、そうなんすか?マジっすか?すごいっすね。」とか適当に「俺マジで凄い充実してるんだぜ。」的なトークを「ただバカみたいに散財してるだけだろ。。。」と思いながらおっさんの話を聞いてて、電話の後に自分も金なんてろくに貯まってない事に気付いて自分自身の様に失笑するという。。。

反面教師としては良いと思いながらその駄目さへの指摘がブーメランのように返ってくる。しかし、この痛みが自分をより良い方へ導くと信じたい。

「考えても仕方が無い事を考えてしまう私の性質は仕方が無いのだろうか?」(自分自身でも「今こんな事を考えても仕方が無い」と認識していながらも考えるのを上手く止められない自分自身に呆れながら、思う。【2017/10/15】)

少し前に読んだ「まおゆう魔王勇者」で魔王は「『仕方が無い』という言葉が嫌いではない。なぜなら、時にその言葉は飲むに飲めない妥協を飲み込んでも前へと進む言葉になるから。」と言ってました。しかし、自分が感じた「仕方が無い」がただの後ろ向きな言い訳でしかないのか。それとも、「本当に仕方が無く」て、呑みこむべき事柄なのか。そのどちらなのかを判断するのは自分自身でしかなく、そして、私にはその判断基準というものがよくわかっていない。結局は自分がそうだと思った方でしか無い訳だが・・・やはりまだ判断がつかない。

「私は死ぬまで、私の幸福な記憶の幸福な奴隷でありたい。」(三秋縋さんの「僕が電話をかけていた場所」の「記憶の幸福な奴隷」という表現が堪らなく好きで、思いつく。【2017/10/22】)

私たちは自らの記憶を頼りにしなければ生きていく事は出来ない、いわば「記憶の奴隷」であることはただの事実ですが、「奴隷」と言えば、連想する言葉としては「貧しい」とか「不幸」といったもので、「幸福」とは真逆の所に位置する言葉です。「幸福な奴隷」という、この本来なら交わらないはずの言葉と言葉が交わって生まれる、言語化できない面白さ、堪らなさを生み出す三秋縋さんは本当に素晴らしいと思う。

「仕事はあくまでより良い生活の為であるべきもので、仕事のための生活であるべきではない。」(久しぶりに連チャンで11時間以上働く日々の中、疲れて家に帰ったらほとんど食って寝るだけみたいな日々を数日過ごして、思う。【2017/11/24】)

自分の好きなものを仕事にしている人とか、職種にもよるのもかもしれないが、「仕事=金」の考えが強い人なんかは、これが逆転しちゃったりすると、日々擦り切れていきそうだ。

「世の中の大半の事が心底どうでもいいなか、ほんの少しでも自分にとってどうでもよくない、こだわりみたいなのがあると自覚できることは救いである。」(休日、ぼ~っとネットサーフィンしていろいろなニュースなんかを見つつ、思う。)【2017/11/26】

突き詰めて考えていくととあまりにもどうでもいいと思える事が多すぎて「全部どうでもいいんじゃね?」とすら思える時もありますが、そんな時はダウナーになってて、改めて考えてみるとどうでもよくないことだってちゃんとあるんですよね。

それを再認識するのは、生きていく活力になるなと気がつきました。

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